2023年4月17日月曜日

北野町とオリーブ

現在、北野ではオリーブによる街の景観づくり活動を行っています。

それは何故でしょうか?

神戸と北野の歴史を振り返りながら、何故、今、地域でそのような活動をしているのかご紹介してみたいと思います。

 

神戸は明治以後に出来た、とても新しい街である事はご存じの方も多いと思います。
ここでは、その歴史を、もう少し詳しく見てみたいと思います。
1853年にペリーの黒船が来航しました。
そこで、1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約が締結されました。
いわゆる不平等条約と言われるもので、ここまでは多くの方々が学校の日本史で学ばれた記憶があることと思います。
その、日米修好通商条約で、1859年に横浜、長崎、函館の開港を、1860年に新潟、1863年に兵庫の開港が約束させられました。
横浜、長崎、函館は約束通り開港したのですが、京都に近く、朝廷のセキュリティ上の懸念から、兵庫の開港は反対の声が多く、予定より大幅に遅れる事となりました。
そんな状況に業を煮やした西欧列強は、1865年、とうとうイギリス、フランス、オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、兵庫の早期開港を迫るという兵庫開港要求事件が発生してしまいました。


時は幕末、尊王攘夷の時代です。

数百年にわたる鎖国により、全く外国人を見たことが無い日本の住民との衝突を避けるため、大和田の泊以来都市化が進み、当時人口2万人程度あった兵庫津を避け、東方にある神戸村に港を新設して、ここを開港することになりました。
この江戸時代の図でもわかるように、当時の神戸村は生田神社はありましたが、他には農家が点在する程度の寒村でした。

兵庫開港要求事件を受け、1867年5月幕府は兵庫大阪規定書を結び、神戸港開港に伴い居留地を生田川と神戸村の浜側と決め、居留地整備をスタートさせました。

さらに、同年6月兵庫開港勅許が出され、開港期日を翌1868年1月1日とすることが布告されました。
この年の11月に大政奉還があった事を考えると、本当にドタバタの中で決定されたことがわかります。

そして、予定通り1868年1月1日に兵庫(神戸)開港となりますが、全てがドタバタの中での決定だったので居留地整備が全く間に合いません。そんな状況の中、現在の大丸元町店北側にある三宮神社の前で、備前藩の隊列の前をフランス人水平が横切り銃撃戦に発展するという大事件(神戸事件)が発生してしまいます。

その時、兵庫開港を祝って集結していた西欧列強の艦隊が緊急事態を通達、生田川の河原で銃撃戦になる等、居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕するなど、あわや戦争という事態にまで至りました。

その時、英国留学の経験がある伊藤俊輔(後の伊藤博文)が通訳にあたり折衝に当たるも決裂に至りましたが、急遽開国和親を朝廷より宣言したうえで、明治新政府への政権移譲を表明し、五代才助(後の五代友厚)、伊藤俊輔が粘り強く交渉し、最終的に備前藩が諸外国等の要求を受け入れ、列強外交官列席のもとで当事者を切腹させる等により一応の決着をみることとなりました。

こんな状況の中、開港を契機にどんどん神戸に押し寄せてくる外国人に対して居留地整備が全く間に合わないので、伊藤俊輔が苦肉の策で、東は生田川から西は宇治川まで、南は浜から北は山辺までを雑居地として指定し、従前の日本人の住んでいる所に、外国人が混在して住むことを認めました。このような雑居地は世界的に見ても珍しく、当時神戸以外で現地人と外国人が混在して住むことが認められた街はほとんどありません。

余談ですが、この後、伊藤博文は初代兵庫県知事となりますが、その時若干26歳。後に44歳の時に初代内閣総理大臣となります。今の感覚だとその若さに驚きますが、このように当時の日本は若者が国や時代を引っ張っていたことがわかります。

さらに余談ですが、ペリー来航から日米和親条約、日米修好通商条約と、日本が開国に至る過程で中心的存在だったアメリカが、その後の動きの中ではあまり出てきません。実はその頃、アメリカは南北戦争の真っ只中で、自国の事が大変で、遠い外国の事に構っている余裕が無かった為と考えられます。

これが明治2年、北野村から南を見渡して撮影した写真です。

真ん中にあるこんもりとした森が生田神社のある生田の森。その向こう側のまだ何も建っていない居留地の先に海が見渡せます。生田の森の左に見えるのが明治初期にあったという競馬場。現在の東門筋は、この競馬場の名残と言われています。
この写真を見てもわかる通り、当時の神戸はほとんど何もない所でした。

 
これが明治5年の地図です。
先程説明した生田神社の東に競馬場があり、その東に生田川が流れています。
居留地の骨格も定まっていて、北野町あたりにちらりほらりと外国人が住みだしていることがわかります。ちなみに、この生田川はよく氾濫する川で、氾濫すると居留地に危険が及ぶという事で後年東の方に付け替えられ(現在の新生田川)ました。旧生田川の跡地が現在のフラワーロードで、道路沿いの土地を売却して河川の移設費用に充てられました。その移設事業を行った事業者の名前から加納町という町名はつけられています。
 

外国人居留地が出来たことから神戸の町は発展しましたが、雑居地「北野」は居留地とは全く異なる文化を生み出しました。

いきなり普通の農村の畑の中に、バラバラと住宅(異人館)が建設され、畦道が小径として利用されるようになりました。
外国人たちは、望郷の念から、港を見渡すことが出来るように、南向けに住宅を建設しましたが、日本人の民家と小径を挟んで隣り合うような形で、いきなり住みだしたわけです。
当然の事ながら、住んでおれば声が聞こえる、匂いがする、色々なものが目に見えます。
わからない言葉を話している、目の色の違う人、髪の色の違う人、肌の色が違う人がいることが次第にわかってきます。
日本ではお正月に餅をつく習慣がある一方、外国人はクリスマスにケーキを焼く。
日本の家からは醤油のにおいが、外国人の家からはバニラのにおいが漂ってくる。
毎日毎日がお隣さんで、日常的にかかわりあうわけですから、小径をはさんだコミュニティが自然発生的に生まれてきます。
このようにして、世界的にも珍しい、自然発生的な異文化交流が生まれてきました。

そして北野では、外国人が日本人と共に時を重ねていきました。

その事が 次第におおらかで多様性に寛容な文化をはぐくんでいきます。
このようにして、相互に生活文化が溶け込みあい、独自でエキゾチックなハイカラ文化が誕生してきたのです。

まさに、異人館のある街北野は、近代神戸の歴史そのものと言えます。

そして大正末年には異人館の数は300棟を数えるほどになっていました。
しかし残念ながら、現在は30数棟を残すばかりとなっております。

これが明治中期の北野町の写真です。

数多くの異人館が立ち並んでいることがわかります。

 
 
第二次世界大戦で、神戸は壊滅的な被害を受けましたが、北野町界隈には戦災を逃れた異人館が数多く残りました。これら、戦災を逃れた異人館が数多く残るエリアを文化庁が伝統的建造物群保存地区として指定し、独自の景観を保全するように現在も規制がかけられています。
 

 

これは昭和の時代の北野町の写真です。

北野町を題材に、数多くの作品を残した小松益喜画伯の写真も残っています。

かつての北野は、外国人が普通に居住する静かな住宅街でした。

居住する外国人が道を行きかう日常が、当時の北野にはありました。

北野町には定住外国人が住み着くことで、狭い範囲に様々な宗教施設が集まっています。

 いわゆる神社や仏教寺院は当然の事ながら、カトリック教会、ユダヤ教会、ムスリムモスク、ジャイナ教会等々、様々な宗教施設がこの狭い範囲に集まっています。さながら世界平和の縮図のような現実が、ここにはあります。


 そのような静かな日常を一変させたのがNHKの朝のテレビ小説「風見鶏」でした。

1977年、北野町を舞台として「風見鶏」が日本全国で毎朝放映されるや否や、一気に観光地として人気沸騰し、地域に猛烈な数の観光客が押し寄せました。
住んでいる家の中まで観光客が入ってくるなど、観光被害が深刻化し、地域の外国人が新神戸駅東側の住宅地等に数多く転出し、異人館の解体が進みました。
そのままにしていると、異人館の解体が加速的に進み、地域の持つ歴史的風致が不可逆的に失われかねないという危機感から様々な動きがあり、1980年に伝統的建造物群保存地区が指定され、1981年には地域団体の「北野・山本地区をまもりそだてる会」が発足しました。
「北野・山本地区をまもりそだてる会」は活動の一環として「花と緑を育てる運動」等を行っていましたが、1995年に阪神・淡路大震災に被災。この時にもいくつもの異人館が失われてしまいました。
1997年には阪神・淡路大震災の支援に対する感謝と、まちの復興を発信するため、「花と緑を育てる運動」 のシンボルイベントとしてインフィオラータこうべを開催し、2001年からは舞台を北野坂に移し、毎年ゴールデンウイークの風物詩として定着し、コロナ禍による中止はありましたが現在でも継続して開催しています。
そんな中、2013年よりオリーブによるまちの景観づくり活動がはじまりました。


 北野町とオリーブに何の関係性があるのでしょうか?

それは、北野に日本最初の国営農業試験場「神戸オリーブ園」あったからです。

「神戸オリーブ園」って何? それでは詳しく見ていきましょう。

先述のような過程を経て、明治の開国により、日本は世界にデビューしました。

しかし開国に至る過程で、西欧列強との力の差は歴然としたものがあることを明治政府は痛感し、富国強兵、近代化が開国した日本にとって何よりも緊急の課題でした。火急に取り組まなければ、隣国の清国がアヘン戦争により西欧列強に蹂躙された二の舞になりかねないと、明治政府には大きな危機感がありました。
そこで、政府は殖産興業政策を掲げ、軍事工業と官営工業を中心に欧米の生産技術や制度を導入して、急速な工業発展を図りました。

その一環として打ち出されたのが勧農政策です。勧農政策は大久保利通内務卿と経済官僚の前田正名主導の元、輸入抑制と輸出促進を進め、外貨獲得の具体的施策として強力に進められました。まずは輸出の可能性のある植物が、様々に試験栽培されることになりました。


明治政府の大いなる意思の元、神戸地方に暖地植物栽培試験地が設置されました。

農業試験場を設置して、オリーブ、ゴム、オレンジ、レモン、ブドウ、ユーカリの六種類を試植したところ、オリーブのみが土質に適応し、将来普及が期待されたので、明治12年に神戸オリーブ園を開園することになりました。

この時に活躍したのが、先程も経済官僚として紹介した前田正名。

神戸オリーブ園に関する一人目のキーパーソンです。

薩摩藩の藩医の子として生まれた前田正名は、青年時代五代友厚に出会い多大な影響を受けます。そして薩長同盟の密使に加わり坂本龍馬から短刀を貰ったと言われています。その短刀を携えフランス遊学し、フランス滞在中に普仏戦争でパリ市民として参戦しています。戦後、そのままパリに滞在し、パリ万博日本事務所の雇員、内務省勧業寮御用掛を務めた後日本へ帰国して、様々な政府の要職とともにパリ万博事務官庁を務め、三田育種場を創設して初代場長となりました。

そして翌年開催されたパリ万博で、パリの種苗業者からオリーブ苗を購入し日本に送り、その苗で翌12年に神戸オリーブ園を開園しました。
19年には農務省から神戸オリーブ園と播州葡萄園を委嘱され、神戸オリーブ園内に居住します。そして、その後も様々な政府の要職を務めながら、自然保護にも着目し、帝室御料地の払下げ地を購入し、阿蘇、富士御殿場、阿寒などに約5000ヘクタール以上の広大な敷地を所有し、当時日本最大の大地主となっていました。
これら、前田正名の所有する土地の自然環境を保護する目的で、後に国定公園が定められることになります。
前田正名の子孫が宝塚歌劇団OBで、前田正名が残した阿寒湖の自然保護に尽力したという事もあり、前田正名の一生は、近年宝塚歌劇団の「サムライ」という演目で上演されました。

もう一人のキーパーソンが福羽逸人です。

果樹園園芸学者の福羽逸人は新宿御苑、須磨離宮公園や栗林公園、日比谷公園等の庭園設計や日本のいちごの父として有名ですが、神戸オリーブ園で育ったオリーブで、日本で初めてのオリーブ搾油に成功しました。

福羽逸人が搾油したオリーブ油は、来日中の外国人から非常に高い評価を得ました。

福羽逸人は、後年小豆島でオリーブが栽培されることになった時、小豆島にオリーブ搾油の技術を伝えたことでも知られています。

この神戸オリーブ園が明治初期に存在していたことは専門家の間では知られていましたが、長年その場所は不明でした。近年、神戸大学の中西テツ名誉教授の研究により、国立公文書館収蔵の公文禄等を調べる中で、神戸オリーブ園の所在地や形状がわかりました。

神戸オリーブ園は、現在の神戸北野ホテル及びその南にある合同宿舎の場所にあり、現在でもほぼ当時の形状がそのまま残っていることがわかりました。

神戸オリーブ園は、当時の写真にも残っていました。

居留地と北野町は三ノ宮筋(現トアロード)で結ばれており、その道路に面して神戸オリーブ園は設けられていました。

この写真を拡大すると、オリーブの木が写っています。

神戸オリーブ園は前田正名が持ち帰った苗を使って明治12年に開園しました。

神戸オリーブ園は山本通り6丁目あたり(現在の神戸山手女子高校あたり)にも拡大しましたが、明治初期の戊辰戦争から西南の役に政府が多大な戦費を使ったこともあり、貨幣インフレ対策として松方財政においてデフレ緊縮財政政策が取られ、経費削減の為に明治19年には前田正名に委嘱されることになりました。

戊辰戦争では多くの国民の血が流され、その鎮魂の目的で設立されたのが靖国神社で、湊川神社は靖国神社の兄弟社にあたります。大政奉還や無血開城から、明治維新はスムーズになされたようにイメージしがちですが、実際は多くの国民の血が流され、多大な戦費が費やされて成し遂げられました。


 オリーブ園はその後売却され、どこに存在していたのかわからなくなっていました。

明治の神戸には、オリーブが庭木に実る情景がありました。当時の記録では、オリーブが人家の庭にも点在し、よく結実していたと記されています。このように、明治の神戸の人々が、オリーブを庭木にしていたという情景は、神戸オリーブ園の置き土産というべきかもしれません。

そして現在、当時を記憶するものとしては、湊川神社にあるオリーブの木があります。湊川神社のオリーブの木は前田正名がフランスより持ち帰った苗の一つが育ったもので、日本最初のオリーブ樹と言われています。

ただ、樹齢130年を誇る日本最古のオリーブの木が湊川神社に残っている以外、北野町からオリーブの記憶がほとんど忘れ去られてしまっていました。

様々な研究から、下記年表のような神戸オリーブ園に関する歴史が明らかになりました。


2013年、このような地域の歴史的背景を初めて明らかにした中西テツ神戸大学名誉教授の講演を契機として、地域としてオリーブを活用したまちづくりの機運が盛り上がってきました。

そこで、持続的な活動とするべく、2013年にインターナショナルオリーブアカデミー神戸を設立しました。


今までの10年にわたるインターナショナルオリーブアカデミー神戸の活動の中で、北野・山本地区の様々な所でオリーブの植樹がなされてきました。

北野坂の歩道の植栽にはオリーブが植えられ、オリーブのプランターも多数置かれています。また風見鶏の館の前や北野町東公園や山本通東公園にも、多くのオリーブが植えられています。オリーブの木は、何気なく見ていると気付かず見逃してしまいがちですが、注意して地域をみていただくと、思いのほか多くのオリーブが既に植樹されていることに気付かされることと思います。神戸北野ホテル前には、神戸北野オリーブ園のモニュメントが設置されています。

2023年はインターナショナルオリーブアカデミー神戸の活動開始から10周年となりました。


 このように、約10年前、日本最初の国営農業試験場「神戸オリーブ園」が北野にあったことが明らかになり、その背景を追っていくと、明治初期、世界デビューしたばかりの、初々しい日本の姿が見えてきました。しかし、戦後、これらの歴史は市民から忘れられ、「幻のオリーブ園」と呼ばれていました。

オリーブ園の詳細がわかるにつれ、明治の先人が未来の国の発展を願い築き上げた史実が見えてきました。また、国際都市として共生・友愛のまちづくりを重ねた神戸の歴史と伝統を踏まえ、北野町ではオリーブによる街の景観づくり活動を行うようになりました。

以上のような経緯を経て、北野ではオリーブによる街の景観づくり活動を行っています。

インターナショナルオリーブアカデミー神戸は下記HPを作っておりますので、興味をお持ちの方は是非一度ご覧ください。

オリーブアカデミーで神戸北野のまちをオリーブ樹で緑化を!|インターナショナルオリーブアカデミー神戸 公式HP (olive-academy.jp)
 















2022年8月10日水曜日

コーポラティブ方式の今とこれからの視点

 NPOコーポラティブハウス全国推進協議会(略称:コープ協)がコーポラティブハウス50周年記念イベント「コーポラティブのこれまでとこれから」という連続シンポジウム(全6回)を開催しております。8月6日に開催された第6回シンポジウムでお話した「コーポラティブハウス いま、これから」の内容を紹介させていただきます。多数発表者がおり、10分程度と、かなり限られた時間の中での発表だったので、非常に駆け足の紹介になっておりますことを予めご了承ください。

 連続シンポジウム「コーポラティブのこれまでとこれから」

前回は、今までの私共の取り組み全般の概要をご紹介させていただきましたが、今回は個別の事業毎に、私共がどのように事業を構築しているか、その枠組みについてご紹介させていただきたいと思います。

 株式会社キューブが最初に取り組んだコーポラティブハウスは「スクウェア六甲」です。

スクウェア六甲は震災で被災した従前長屋4件の等価交換による共同化事業です。

竣工は1999年2月。立地は震災で大きな被害を受けたJR六甲道から徒歩5分。一つ西側のブロックからは震災復興の大規模な区画整理事業が行われています。

敷地面積は257㎡で近隣商業地域。鉄筋コンクリート造の地上8階建てで住宅11戸、店舗1戸からなる建物です。

 従前土地評価額は約200万円/坪で、募集価格は平均坪単価約165万円で、取得目安価格が約2600万円~4500万円の事業です。

事業の枠組みとしては従前長屋の共同建て替え事業です。

本事業では当該地に継続して居住を希望する地主は等価交換により相当の床を取得し、転出を希望する地主は土地売却費として約3000万円を取得しました。

次に取り組んだコーポラティブハウスは「塚口コーポラティブハウス」です。

「塚口コーポラティブハウス」は関西初のスケルトン定期借地権事業です。

定期借地権の等価交換により、地主は資金投下0で年間収益約1000万円を確保する事業となりました。

竣工は2000年6月。立地は阪急塚口駅から徒歩4分、敷地面積は約660㎡あります。

第一種中高層住居専用地区にあり、鉄筋コンクリート造地上6階建て、住宅11戸店舗1戸の建物です。

土地評価の1/2を超える権利金を設定することにより、立体買換えの特例により権利金を等価交換し、72坪の店舗床を無償取得、地代収入約22万円/月の収益性を生み出しました。

募集価格は平均坪単価約125万円(権利金含む)で、取得目安価格が約2600万円~3300万円で、地代は戸当たり約2万円/月となっています。

 このプロジェクトの特徴的な事業の枠組みは、弊社の顧問会計士と共同開発した定期借地の等価交換です。

本事業で地主は1階に約240㎡の診療所の床を無償で取得されました。

診療所は月額坪1万円程度で貸し出され、月額70万円以上の収入が見込まれます。

本事業では地代収入として月額20万円程度が得られるので、併せて投下資金0で年間1000万円を超える収益が確保できます。

入居者は管理会社に管理業務を委託しており、地代徴収等の業務は管理会社の業務となる為、地主は出納管理の必要もありません。

 「シェヌーア御影」は従前地権者4戸の共有地で、2戸の権利解消し、2戸と等価交換事業を行いました。1フロア1戸又は2戸の計画とし、独立性及び開放性を確保するようにプランニングしています。

竣工は2002年6月で阪急御影駅徒歩5分の立地。敷地面積は約326㎡です。

第二種中高層住居専用地域に鉄筋コンクリート造地上8階建てで住宅10戸の計画となっています。

土地価格は坪単価約150万円で、取得目安価格は3500万円から7200万円、坪単価約170万円でした。

この事業では、先代が建てた老朽化賃貸マンションの、相続で発生した親族の共有関係を事業を通じて解消しています。

本事業で当該地に継続して居住を希望する地主は相当の床を取得し、転出を希望する地主は土地売却費として約4000万円を取得されました。

等価交換事業において、交換差金は売却資金の2割を超えない範囲で取得することができますが、譲渡所得として課税されます。また、床取得にあたっては追加資金を入れることも可能です。


「 デュプレックス宝塚千種」は極端な変形地における事業です。

4m接道の旗竿敷地で北側斜面に中庭型のメゾネット及びトリプレット住戸を並列して計画しました。

竣工は2002年3月。立地は阪急今津線小林駅徒歩1分で、約562㎡の敷地面積です。

第一種低層住居専用地域で、鉄筋コンクリート造地上2階地下1階建ての住宅6戸です。

土地価格は坪単価約40万円で、取得目安価格は約4000万円で坪単価約140万円でした。


 見ての通り、接道4mで北斜面の旗竿敷地で、駅に近く閑静な住宅地に位置しますが、非常に土地利用の難しい土地です。

ここに、各住戸に中庭を設けることにより、独立性と開放性の高い住宅を実現しました。

竣工写真を見ていただくと、住戸の独立性と開放性をご確認いただけると思います。

 「アンビエンテ北野」は北野町山本通都市景観形成地域内の事業です。

2項道路に約8mしか接道しない、約526㎡の東西に細長い変形敷地でした。

竣工は2004年5月で新神戸駅から徒歩5分に位置します。

第二種中高層住居専用地域に鉄筋コンクリート造地上4階建てで住宅8戸事務所1戸の計画です。この事務所1戸は株式会社キューブが事務所として利用しています。

土地価格は坪単価約60万円で、募集価格は平均坪単価が約150万円で、取得目安価格が約2600万円から5100万円でした。

 この土地は神戸は北野町の異人館街の真っ只中に位置する、42条2項道路に8mしか接道しない極端に東西横長の変形地でした。

そこに、1フロア1戸から3戸を配置し、前面道路から来る許容容積160%をほぼ使い切る、土地のポテンシャルを100%引き出すプランニングを行いました。

 

このプロジェクトでの取り組みは業界紙でも紹介されました。

「帝塚山イクス」は関電不動産開発との共同事業です。

高級住宅地として知られる帝塚山中一丁目における事業でした。

竣工は2005年8月。阪堺電車姫松駅徒歩5分の612㎡の敷地です。

準住居地域の聖天山風致地区に、鉄筋コンクリート造地上5階建て住宅9戸の計画です。

土地価格坪単価110万円で、募集価格平均約185万円で取得目安価格は約4400万円から7800万円でした。

このプロジェクトも業界紙に紹介されました。

レスタジア南田辺は老朽化木賃住宅の建替え事業です。

事業を通じて複雑な権利関係を整理しました。

竣工は2006年11月。JR鶴ケ丘駅徒歩8分の立地の約614㎡の敷地です。

第二種住居専用地域に鉄筋コンクリート造地上8階建てで住宅15戸を計画しました。

土地価格は坪単価約100万円で、募集価格は平均坪単価約150万円で取得目安価格は3200万円から4300万円でした。

長居公園を南に直接面する絶好の立地でありながら、従前は戦後まもなく建てられた老朽化木賃住宅でした。

敷地内には建物が7棟建っており、底地は先代所有で相続登記されないまま二次相続が発生しており、遺産分割協議に基づく分筆も未済で、建物の多くは地主親族法人所有となっているものの建物表示登記未済。一部地主親族が土地建物共に所有している部分があるものの、建物表示登記未済という非常に複雑な状況でした。

このように複雑な権利関係を事業によって整理しました。

本事業で借地権を有する地主法人と底地権者である地主は、それぞれ賃貸住戸と居住用住戸を取得し、転出を希望する地主は土地売却費を取得しました。

事業を通じて個々に分離処分することが困難だった複雑な権利関係を整理し、老朽化により収益を生むことが困難な状況に陥っていた賃貸住戸は収益を生む住戸に生まれ変わりました。

「宇多野コーポラティブハウス」は京都方式(木造テラスハウス×スケルトン定借)で事業化したプロジェクトです。

環境共生をコンセプトに、一団地申請で従前地盤面を保全し既存樹木を活用、持続可能性を持った現代版京町屋の創造を目指しました。

京福宇多野駅徒歩5分の立地の敷地面積約1409㎡。

第一種低層住居専用地域に木造一部鉄筋コンクリート造地上2から3階建て住宅を13戸計画しました。

権利金で賃貸住戸を建設し、地代とあわせて月額50万円程度の収益を生む事業を構築しました。募集価格は坪単価95万円で取得目安価格は約2300万円から2800万円でした。

約35mもの長さのアプローチを持つ旗竿敷地に隣接する御陵と緑を連坦し、緑豊かな自然を確保、既存樹木を出来る限り生かし、生態系と緑の保全を図りました。

周山街道沿いの緑地帯を活かし、沿道の喧騒を遮断し、緑に囲まれた環境を実現しました。

建物は一団地申請により分棟化し、各住戸はダブルウォール(壁二枚:柱二本)により独立性を確保しました。

「ル・パッサージュ北野」は狭小地での事業です。

近隣商業地域の約140㎡しかない敷地に鉄筋コンクリート造地上9階建ての住宅7戸という、都心の狭小地における計画です。1フロア1戸を基本とし、利便性と良好な住環境の両立を目指しました。

土地価格は坪単価約190万円で、募集価格は平均坪単価約163万円の事業でした。

「内淡路町ハウス」は老朽化した印刷会社ビルの等価交換による建て替え事業です。

天満橋徒歩8分の約4040㎡の商業地域の敷地に、鉄筋コンクリート造地上13階建て住宅24戸、事務所1戸を計画しました。

土地価格は坪単価175万円で募集価格は平均坪単価約150万円でした。
 

オーナー個人と会社が所有する印刷会社ビルが老朽化。印刷業の業態変化により、かつて印刷機の置かれていたスペースが遊休スペース化し、メンテナンスも先送りにされていました。

本事業では立体買換えの特例を用い、従前ビル所有者は資金投下をせずに印刷会社として必要なスペースを最新仕様の事務所・倉庫として確保、余剰スペースは賃貸住戸として収益を生むストックに変換、最上階にバリアフリーのオーナー住戸を取得しました。

「ペイサージュ宝塚寿楽荘」は高低差のある邸宅跡地の計画です。戦前に建築された従前邸宅の、地域の景観形成の一部ともなっている巨石の石積擁壁を生かし、環境共生を目指した庭園住宅として計画しました。

阪急宝塚南口駅から徒歩7分の約696㎡の敷地で、第一種低層住居専用地域に鉄筋コンクリート造地上3階地下1階の住宅8戸を計画しました。

土地価格は坪単価約45万円で、募集価格は坪単価約161万円の事業でした。

以上ご紹介させていただいたのは、キューブで手掛けてきた事業の一部です。

すべての事業において、事業毎に創意工夫し、地主の意向、土地の状況、地形、規模、市場環境その他、あらゆることを踏まえ、その土地に最もふさわしい活用方法を実現する手法として、コーポラティブ方式を利用してきました。コーポラティブハウスは、その事業の仕組みから、前例のない全く新しい取り組みを進めるには非常に適した方式だと思います。現在も新規のプロジェクトに取り組んでおり、その可能性はまだまだ残されていると感じています。

今後とも、コーポラティブハウスから得られた知見を活かし、さらなる大きな可能性を見つけていきたいと考えています。